主(あるじ)の居ない建築。

CCF20200624 主(あるじ)の居ない建築。『頭をガーンと殴られたような感じでした。』

 

先日、私からのプレゼン説明を一通り終えたのち、オーナーさんが発された一言。

 

この心療内科クリニックのプロジェクトでは、色んなことを想いながら仕事をさせて頂いた。

 

この建築は誰のためのもの?誰が喜んでくれる?誰がどう動く?と、

駆け出しの頃から自問自答しながらずっと建築を考えているが、建築は経済と密接に絡んだものである以上、

まずもって建築は第一義にオーナーさんのためのものである。

 

でも、確かにそうなんだけど、所有権はオーナーさんのものでも、本当にこの建物を必要としているのは、一体誰?誰が喜んでくれるために、この建築をつくるのだろうか。

 

表面的なリクエストにだけ応えるのではなく、建築をつくる意味をよく考えて、具現化することこそが、結果的にはオーナーさんが真に求められていることであると、この仕事をやってきた経験上、そう感じている。

 

プランや空間を、こうして、ああして、デザインは今時の感じで、、、などなど。

色んなオーダーはあったとしても、一体誰のためのデザインなのか、そこを考える。

 

手前味噌にはなるが、デザインや表層的な事柄は、専門家なので何とでもなる。

言葉は少々乱暴だが、専門的な見地では付け焼き刃的でも、一般的に所謂綺麗なものにまとめ上げることは殊更容易で、表層的な事柄は専門家なので何とかすることは出来る。

 

また、例えば、オーナーさん自身A案が良いと思っていても、建築の寿命は長い、それは今この瞬間Aが良いと思うだけで、実際は経年を踏まえ、B案のデザインの方が良い、ということも頻繁にある。

 

建築の設計とは、デザインという目に見えるものと、建築の時間軸、目に見えないものを見る目、その両目を見開いて、無数の様々な事柄を整理決定していくものだ。

目に見える間取り、デザイン。目に見えない空気、光と陰。

つまり全てはコインの裏と表である。

 

そして、目に見えない根や幹の部分が最も大切で、そこがしっかりしていれば、

生き生きした芽や美しい花は、放っておいても勝手に咲いてくれる。

いや、勝手に、花は咲いてはくれぬ。。

実際には、添え木をして、肥料をやってと、手取り足取り、設計の手当てが必要とはなる。

 

回り道したが、要するに、

そんなAやBのやり取りではない、そうじゃない、そんなカタチ遊びのような建築が出来たとしても幸せにはならない、と最近建築を自分でつくるようになり、そんな風に建築をじっと見るようになった。

 

このプロジェクトは、云うまでもなく、患者様のための建築であり、患者様が快く、安らかに、くつろげるような、そんな空間、建築をつくるべきだと強く想い、オーナーさんから既にオーダーされていた事柄を当然満足しながらも、さらにその枠を遥かに超えた提案、

究極的にはオーナーさんのためではない、患者様のための建築をつくりたい、と私の構想を打ち明けた。

 

そんなプレゼンを経ての冒頭の一言である。

 

建築は、持ち主のものであることは云うまでもないが、今一度建築をつくる意味を考えたいと思う。

建築を建てるには土地も必要で、たまたま恵まれてお金を持った一部の人たちのものである現状は否めない。

結果、世の中には個々の欲望が詰まった余剰な建築で一杯な状況だ。

勿論、事業化にあたり、努力を重ねられ、リスクを背負って、チャレンジされていることへのリスペクトはありながらも、さもありなんである。

 

色々な想いを抱かれて、当方の設計に期待して頂いたオーナーさんの想いに応えるためにも、

そんな提案をさせて頂いた。

 

 

だからこそ私は、

目の前のオーナーさんの遥かその向こう側で、救いを求められている患者様を感じながら、

その方々をそっと待っているようなそんな建築をつくりたいと想った。

 

 

本当に必要としているひとへ届くような建築を。

 

 

この建築が悩めるお方の、ほんのすこしの灯火になりえたら、どんなにうれしいことだろうか。

 

 

 

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