建築家
一級建築士
世界を旅し、建築を独学。
2001年独立。
沖縄、関西を中心に、
全国で設計を行う。
『帰ったら電話下さい。』
母からの留守電だった。
23時半頃だったか、会社から帰った私は普段なら折り返しかけない電話をした。
『Mさんがあんたにお家を設計して欲しい、って言うてはるねん。あんたどうする?』
勿論答えは決まったいた。
当時、大学を出て、サラリーマン歴4年目の26歳の私は、夢と現実のズレに焦りを感じており、生まれて初めて感じるくらいの、光が射す、ような母からの言葉だったことを、今でも鮮明に覚えている。
とはいえ、当時働いていた職場では住宅を扱っておらず、明らかに経験不足な上、将来独立した時に仕事が来なくて無一文でも、 5年は生きのびられるように500万円貯金する、ことくらいの準備しかできていなかった。
母からは、『あんた、住宅つくったことないやろ?大丈夫か?』と聞かれたが、
間髪入れず、『大丈夫や。勿論、やらせて欲しい。』と答えて、電話をきった。
ネクタイ姿のままの私は、これはえらいことになったぞ、と正直思った。
えらいこととは、喜び、というよりは、驚き、いやそれ以上に緊張、不安、そして責任、と色々な感情が次から次へと押し寄せてきて、その晩は興奮状態でなかなか眠れなかった。
待ちに待ち焦がれた設計の依頼が、突然来てくれたことに、時間が経つほど不思議に思い始め、答えが見つからないまま、その晩は眠りについた。(その後、設計事務所を続ければ続けるほど、神様、ご先祖様のおかげだと分かるようになるのだが。)
建築家になって、足の指先から頭のてっぺんまで、自分の美意識で建築をつくることが夢だった私に、とうとう設計の依頼がきたのだ。
数日後、Mさんにお会いをした。設計の依頼を頂いたことに感謝を申し上げて、要望や予算をお聞きし、敷地を確認した。
Mさんは母の友達で、私が学生時代から世界へ貧乏一人旅に出ていること、建築家を志していることを、母は話していたようで、甚だ恐縮ながら、Mさんはそんな私を以前から買ってくれていて、実績も経験も何もない私に、終の住処をつくって欲しい、と設計を依頼してくれたのだ。
そんなMさんの気持ちに、絶対に応えたいという想いと、この建築を通して、山本雅紹を世に出す、という強い決意のもと、勤めていた会社を速やかに辞め、六畳一間にこもって、一人設計と向き合う日々が始まった。
あれもしたい、これもしたいと湧き上がるイメージを寝る間も惜しんで、ひたすら平面図をスケッチする日々。
時間帯を変えて、何度も何度も敷地へ通い、光や風の流れ、空を眺めては、敷地周辺の街並みや人の風景を脳裏に焼き付けて、寝ても覚めても敷地のことばかり考えていた。
Aから始まった案が、とうとうZまできた26案目。
いつもの敷地調査の帰り、大阪市立大学沿いの夕暮れ時の道端で、閃いた。そのイメージを紙の切れ端にスケッチし、一気に基本設計の平面が決まった。
次は実施設計(基本設計の次に行う細かい寸法を与える設計作業)だ、といっても、経験のない私は障子ひとつ設計するにも、なかなか鉛筆が進まない。様々な巨匠の建築家の作品集や、ディテール集を机や床一面に並べて、まずはその作品の分析から始めた。
障子の組子(桟)を決めるために、奈良や京都に出かけ1枚の障子を設計するだけでも1週間も2週間も悩んだ。
結局最後まで悩んで現場で原寸模型を作って決めたが。。
建物の構造は、あえて複雑になる混構造(構造が複数になること)を選択し、この建物から建築の全てを吸収してやろうと、世界中の誰にも負けない情熱という唯一の武器を手に、今思うと無謀な挑戦をひたすら続けた。
一人部屋にこもって、Mさんの住宅と向き合っていると、社会との距離がどんどん開いていくような気がして、今の不安と将来の不安で眠れない日々も少なくなかった。
そんな夜は、『この建築を世に出して、俺も世に出る。』と自分を鼓舞し、旅先で出会った世界中の心震える建築を思い出しながら、一日を終えた。
その他、金銭面での将来の不安を少しでも減らすべく、毎日3食素うどんと納豆ご飯、たまに卵付きで、案と格闘する日々。今だから言えるが、節約の為、無保険状態だったので、とにかく健康であるべく、緊張を保ちながら、禁欲修道院生活をし、全てを建築に捧げた。
建築の設計には、芸術家の能力は勿論のこと、技術屋としての能力、これら両輪が必要となる。
さらに設計は、いざやってみると、制約と決断の連続である。
たとえ紙に造形的な曲線を自由に書き入れたところで、それを具現化させるために、論理的かつ技術的にアプローチしなければならない。
建物の構造、耐久性、経済合理性、そしてその造形が、果たして普遍的な時間に耐えうる代物か、つまり建築として必然性があるかどうかの検証が必要となる。
仮に、そこの関門を乗り越えたとしても、次は各種法律をクリアし、設計自体について施主のOKをもらうのは当然のこととして、最大の関門である工事金額、つまり予算内に収めないとならないのだ。
26歳から始めて、3年経ってようやく完成した設計図面。
次は、この完成した設計図面を元に、工事を行う、というフェイズに入っていく。
といっても、工事を行うには、工務店の見積りをとらなければならない。実はここからが本格的な難題、苦難の連続。六畳一間に一人こもって三年がかりで設計図面の作成をしていた日々が、実は天国だったということを、今から始まる地獄を前に、知る由もなかった。この章では、とにかく泣いた。
通常の設計事務所独立の流れは、何処ぞの先生に弟子入りをし、独立後は先生と付き合いのある工務店に工事を依頼する、というパターンにほぼなるのだが、何から何まで全て独学、自分の身を切って、血を流し、そこから学ぶスタイルの私には、工務店の選定でも、難航した。苦労の末、ようやくあがってきた工事見積りを見て、愕然とすることになる。
何と、施主の予算の倍を超える金額が出てきたのだ。あの時、頭が真っ白になり、極度の不安に襲われたことを覚えている。
そこからは、とにかく予算内に収まるようにと、何度も工務店と折衝するものの、知識も経験も無いぽっと出の若造の話は聞いてもらえない。何とか私の熱意が届いたのか、最初は門前払いだった対応が、少しずつまともに話を聞いてくれるようにはなったが、そもそも予算の倍超にもなった金額、そう簡単にはつまらない。
デザインの命のところは死守しながら、仕様変更を考え尽くし、最後は、担当者を通り越して、会社のトップに直談判して、頭を下げ、何とか当初の施主の予算にもっていった。
数々の難関を突破し、いざ工事が始まったが、ボタンのかけ違いもあって、隣家の人に土下座もした。工務店が倒産もした。
その度に、目の前が真っ暗になり、心が折れた。
建築の厳しさをこれでもか、というほど味わったが、関西国際空港がまだ完成していない19歳の夏、初めての中国、モンゴルへの一人旅。
船で中国へ渡るきっかけになった本の一説『死んだように生きるか。死ぬ覚悟で生きるか。』を思い返し、
中国天津の港から始まった、命の危険を感じるような世界放浪の旅で培った経験と根性、そして世界中の誰にも負けない情熱で、難題や不安を蹴散らしてきた。ここまで来たらもう引き返せない、前へ進むしかない、と毎日心を奮い立たせて生きていた。
けど、設計を独学すればするほど、無限にありすぎる難題の連続に、六畳一間の部屋の中で、何度も何度も押し潰された。
建築家とは、何もない敷地を前に、施主の色々な要望、予算、意見を聞いた上で、光、風、空を読み、構造や素材、そして機能性、耐久性の検討を行い、建築基準法をはじめとする様々な法律をクリアし、その上で芸術的で美しい空間をつくらなければならない。そして時には近隣からの苦情に耐え、さらにこれは自ら課すものではあるが、建築をつくる以上、街の風景の一助にもならなければならない
そして、それらを踏まえた上で、予算を守らないといけない。加えて、工務店のコントロールもしないといけない。
そこへきて、働きながら勉強し、何とか国家資格を取得しても、国や社会が多岐過剰に求め続ける建築を設計することへの責任だけが重くのしかかる上に、世間一般の、所謂、家は最も高価な買い物ということも関係してか(そもそも建築家が受け取る設計料は、建築費と比べると極く少額で、本来建築費とは全くの別物ではあるのだが)、施主の期待と共に、何故か建築費も合わせた形で、建築家の肩へさらに重くのしかかる。
それらを背負いながら、イメージや案を繰り返し繰り返し考えて、やっと閃いたとしても、それらの関門や制約を全てクリアしなければ、建築は実現しない。
建築に対して、それぞれが異なる視点を持つ、施主、工務店、行政との関係の中で、建築家として、本来あるべき建築の姿を唯一知るものとしては、現実との相違に思い悩むこともしばしばで、複雑に絡み合った事象を一つ一つ解決していく建築家の胆力と知力の結晶のおかげで建築がようやく完成する、と言っても過言ではない。
そんな難題だらけを、一つ一つ解決すべく要した、途方も無い時間、労力、そして眠れない日々への対価(謂わゆる設計料)なんかでは、恐ろしいほど賄えない現実を前に、この仕事、大丈夫だろうか、いや大丈夫じゃない、完全に狂っている、と何度思ったことだろうか。
『建築家がやることって、無限にありすぎて、そんなことって出来るわけないやん!そんなん魔法使いやん。
金も全く儲からんし、これほど割に合わん仕事なんか、やってられへん!』
最後には、心からそう思い、人には到底勧められない、とんでもない仕事だと、建築を心底恨めしく思い、憎んだ。
そんなとき、旅先で出会った宝石箱のような幾つかの建築たちを、いつも思い出した。
一歩足を踏み入れた瞬間、目の前に現れる空間の旋律、建築家の呼吸が本当に聞こえてくる、心が震える建築たちを。
世界放浪の旅での、こうした体験だけが、私の心の支えだった。
そして、『やっぱり建築が大好きや。』と、何故かまた、しんどい建築に戻ってきた。
設計も、どの仕事も同じだと思うが、人はほぼ出来上がった道を歩いている。
道を歩いていると、通りには木があって、適当な果実がそれなりに成っている。それを食べながら、生きていける。
けど、人が歩んでいないやり方で進もうとすると、まず自分が歩く道から作らなければならない。木も自分で植えなければ、実も成らない。
私は、旅での記憶を手掛かりに建築を志し、全て独学で、設計を研究、追求していく私だけの道を、自ら作り、歩んでいく、
そして時代や社会、すべてのものに流されず、自分がやりたいように、自分だけの生き方をしようと、決意した。
そんな自問自答の日々を過ごし、気がつくと、4年。
私の人生の喜怒哀楽、全てが詰まった時間。
いや、私流の言葉で言うと、苦怒哀悩かな。
存分に苦しんだ。怒った。哀しんだ。悩んだ。そして泣いた。
けど、その時間があったから、今の私がある。
当時のことを思い出しても、しんどいことや、胸がつまることしか、思い浮かばないが、今から思うと、Mさんのおかげで、夢のような4年を過ごさせて頂いた。
完成してからも、ご家族の変化に合わせてリフォームをしたり、今でもずっとお付き合いをしている。
Mさんには、感謝の言葉も見つからない。
建築家、山本雅紹を世に送り出してくれた命の恩人だと思っている。
そしてあの夜、留守電をくれた母に感謝したい。
スケッチブックとペンだけ持って、19歳の夏から旅をしている。
紙とペンさえあれば、世界中どこでも出来る仕事がしたい、
そして自由に生きたい、と想い続け、建築家になった。
自由とは、不自由を感じないと味わえないものであるが、旅は私に不自由を教えてくれた。時には命の危険を感じるような緊張や不安、トラブルも。
インターネットがない時代、満足な情報もないまま、世界の建築を感じたい一心で、地図を片手にその場に行くことだけを考えた。
海を渡り、何十時間かけて辿り着いたとしても、もちろん扉は開いていない。
中へ入れないなら外、とすぐ切り替えて、リュックをおろし、早速スケッチ、実測を夢中で始めた。
何時間経っただろうか、突然扉が開き、中へ招いてくれた。
インド、スイス、メキシコ、ポルトガル、、、世界中どこへ行っても、なぜか必ず、扉を開けてくれた。
信じ続ければ、そして粘り続ければ、きっと想いは届く。
建築の神様は現れてくれることを知った。
空腹の中、世界をさまよい、目指した地。
あの街のあの曲り角で出会った風。
路地に射し込む光。
オレンジピンクに染まった空。
腰かけた石柱から感じた先人の息づかい。
旅先で出会った風景に感謝しながら、時空を超えてスケッチをする。
その場、その瞬間が、私の中に宝物として、
いつまでも輝き、在り続ける。
旅で出来あがった私の全身から、私の建築が動き出す。
目に見えない事象を具現化することが設計である。
光や風、そして地球の鼓動を映し出す心の風景をつくりだすのだ。
建築は、自然や風景に従うものでなければならない。
風景が求めている姿。
その姿が浮かびあがるまで探す。
美しい光は、美しい影をつくりだす。
美しい影は、美しい光をつくりだす。
すべてはコインの裏と表。
人間と同じで、美しく、朽ちていく建築を夢見ている。
建築も生きている。
Time Light & Shadow.
本当は建築なんか建てない方がいいと思っている。
建てない方が、風景の邪魔にならないし、みんなの空も広いままだ。
けど色んな事情で、建てさせてもらいたい、ということだったら、
せめて、出来るだけ迷惑のかからないものにしたい。
その建築が人様の心に何か、
ほんの少しでも、いい感触を伝えられたら。
通学路の子供達が見て、何か感じてくれる建築であったら。
モノや情報で溢れかえった今の世は、物事の本質が見えにくい。
昔のように、インターネットやスマホ無しで、紙の地図を片手に世界を旅すると、不自由さを思い知らされる。
有難いことに、不自由 を感じられた時、立ち止まって、想い悩み、考え始める。
その繰り返しの中で、物事の本質が見えてくる。
だからこそ、引き算で建築を考える。
20歳の夏 インドを旅した。
そこで感じた強烈な光。
強い陽射しと対峙する自然の造形。
そこで出会った、影。
すべての感触。
私の建築は、旅の記憶。
建築とは、普遍的なものである。
建築とは、地球の鼓動を映し出すものである。
建築とは、時代を超えて愛されるものである。
人間の根源的な住まいの原風景を求めて、
私の建築をCAVEと名付けた。
あの夏のインドの静けさ、匂い。
猛暑の中、バックパックを背負って、
歩き疲れてクタクタの、私の背中を冷やしてくれたあの風を、
今もしっかりと覚えている。